記録では、793年6月8日、イングランド東北部ノーサンバーランド州沖合にあるリンディスファーン島にあった中世ケルト教会のリンディスファーン修道院を襲撃したのが、ヴァイキングによるイングランド侵略の始まりとされています。
また、この事件は、ヴァイキングの活動が最初に記録に現れたことでも知られています。

ヴァイキングの外見としては角のついた兜を被り、毛皮をまとう、といった服装が知られていますが、これは古代ローマ時代にローマ帝国と敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として誤って伝わったのが原因のようです。

 

ヴァイキングって何???

ノルウェー・オスロにあるヴァイキング船博物館

ヴァイキングとはそもそも、スカンジナビア半島一帯に点在するフィヨルド、“ヴィーク”の人々を指して“ヴァイキング”と呼ぶようになったと考えられています。
一般的にヴァイキングと言うと「海賊」で「略奪」をする人々というイメージが強いのではないでしょうか。
しかし実際には、こうした略奪行為で生計を立てていた訳ではなく、故郷では農民や漁民であったと言われています。

また、“ヴィーク”の人々が海に出た主な目的は、交易によるものだったとされています。

 

海賊ではないヴァイキング


ではなぜ、『ヴァイキング=海賊』といったイメージが定着してしまったのでしょうか。
ヴァイキングの日とされる793年6月8日より始まる、ヨーロッパ侵略の正確な原因は今もって分かっていません。
ここでは、いくつか存在する説の一つを紹介してみましょう。

ヴァイキングによるリンディスファーン修道院襲撃は、フランク王国のカール大帝によるザクセン戦争と時を同じくしています。
ザクセン戦争は、キリスト教を信仰するフランク人 VS 伝統的な神々への信仰を保つザクセン人 という宗教戦争の一面を持っていました。
この事から、北欧神話に代表されるように、キリスト教とは異なる信仰をもつヴァイキングがヨーロッパ侵略に乗り出したのは、キリスト教の広がりに対する反撃ではないかとされています。

また、交易の面ではキリスト教徒による不平等な条件の押しつけによって苦しんでいたことが判明しています。

こうした状況から敵対勢力への略奪や襲撃が生まれたのかもしれません。

 

ロシアのはじまり

『ラドガに到着するリューリク』

リューリクという人物がいます。
伝説的要素を持った人物ですが、ヴァリャーグ(スウェーデン・ヴァイキング)の生まれとされています。
彼に関する記録が残るのは、1113年に編纂されたキエフ・ルーシの歴史について記した『原初年代記』という資料だけです。

862年、フィン人と東スラヴ人はお互いの争いに疲弊し、自分たちを率いてくれるリーダーをヴァリャーグに求めました。
その求めに応じたのがリューリクであるとされています。

彼は、古ノルド語で「川の島の城」を意味したホルムガルド(現在のノヴゴロド)を占領し、統治しました。
その後、リューリクの後継者が現在のウクライナ・キエフに国家を創設したのが、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)とされます。
以降、ロシア帝国として知られるロマノフ朝までの時代をリューリク朝と呼ぶのは、その末裔とされているからです。

 

ヴァイキングとロシアの関係


ロシアの歴史を語る上で、ヴァイキングの存在は切っても切り離せないのが、お分かりいただけましたでしょうか。
ロシア史の起点とされる862年の「ヴァリャーグ招致」から1000年を記念して、1862年にはその歴史の中心であったノヴゴロドにロシア建国一千年祭記念碑像が建立されました。
(画像はお客様提供)
記念碑像には、リューリクを初め、イヴァン大帝、ミハイル・ロマノフ、ピョートル大帝といった各時代を象徴する人物のほか、アレクサンドル・ネフスキー、イェルマーク、プーシキン、ゴーゴリといった軍人や文人まで幅広く彫刻されています。(計128体)

これから皆さんがロシアで会う人々は、もしかしたら、かの“ヴァイキング”の末裔かもしれません。
さぁ、この機会に驚きの出会いをしてみませんか???

※一部分かりやすくする為、簡潔化しております。また、歴史資料が少ない事から、検証に基づいた一部の説のみを取り上げております。