2010年1月、愛媛県松山市にある松山城二之丸史跡庭園にある大井戸より1985年に発掘された物品の中から、帝政ロシア時代の一枚の金貨が見つかりました。
その金貨には二人の名前が刻まれていました。
その名は『コステンコ ミハイル』と『タケバ ナカ』。
コステンコ・ミハイルは帝政ロシア軍の少尉で、タケバ・ナカは宇和島市出身の赤十字社看護婦でした。
見つかった金貨の上部にペンダントとして加工した跡が残っていることから、男性が女性にプレゼントしたものではないかと言われています。


1904年から1905年にかけて、日本とロシアは戦争状態にありました。
いわゆる日露戦争です。
コステンコ・ミハイルは日露戦争に於ける捕虜でした。

日露戦争では日本各地に捕虜収容所が開設されましたが、その中でも一番初めに作られたのが松山でした。
当時の松山の人口は約30,000人でしたが、多い時には4,000人を超えるロシア人捕虜が収容されていたそうです。
明治へと時代が移り、世界に文明国であることをアピールしたい日本は、捕虜についての扱いを定めたハーグ条約を遵守し、彼ら捕虜の生活ぶりを世界に発信していました。
その為、ロシア兵の間でも松山は有名になり、投降する際に「マツヤマ!」と叫ぶようになったと言われています。

収容所での生活の中で特徴的なのは「自由散歩制度」。
将校のみであったようですが、決まった曜日・時間に市内を散歩することが可能でした。
彼らは市内で一戸建て民家での生活が認められ、監視なしに自由に散策し、大街道にあった芝居小屋での観劇や道後温泉に入浴、買い物など許され、さらに祖国から妻を呼び寄せることもできました。
将校達は松山市内を自由に外出できるため、市内の食料品店で自分好みの商品を買ったり、洋食店で外食をしたことから、どこの店も満員で繁盛したと記録に残っています。

さて、二人の短い恋の物語は、1904年春から、少尉の足の怪我が回復し静岡に移送される同年12月迄の事でした。
当時敵国だったロシア兵との交際は禁じられていたため、コステンコ・ミハイルは静岡の収容所へ移され、タケバ・ナカも衛戍病院の看護師を解嘱され、離ればなれになってしまいました。

現在の日本円に換算すると約30万円に相当する金貨。
その大切な金貨を井戸に投げ込んだであろう時の気持ちを想像してみませんか。
二人の名前が刻まれた金貨は、現在「坂の上の雲ミュージアム」に展示されています。

>>>二人の金貨を見られるツアーは、コチラ
≪「坂の上の雲」廣瀬武夫の竹田と秋山兄弟・正岡子規の松山の旅4日間≫