チュコトの北極圏海獣猟師遺産は、チュクチ自治管区チュコツキー地区にある、デジネフスキー山塊の南から南東に掛けたベーリング海峡沿いに位置しています。
デジニョフ岬沖合は海流が交わり、多様な海洋生物が回遊する場所で、コククジラ、ザトウクジラ、ミンククジラがよく見られます。
天気がよい時には対岸のアラスカ、プリンス・オブ・ウェールズ岬を見ることも出来ます。

ユーラシア大陸と北アメリカ大陸を隔てるベーリング海峡は、最も幅の狭い場所で86kmしかなく、先史時代より両大陸に住む人々の発展に貢献してきました
ひいてはチュコトとアラスカにまたがって広がる、独特な海獣猟師文化の出現に多大な影響をもたらしました。

こうして2019年11月18日に文化遺産として世界遺産暫定リストに登録されました。

 

構成資産

チュコトの北極圏海獣猟師遺産は、次の史跡から構成されています。
極めて近接した位置にあって、多様な*エスキモー文化の存在を表わしています。

●ナウカンの重層集落・・・15世紀~20世紀半ばまでのエスキモーの2つの集落跡
●エクヴェンの埋葬地と集落・・・紀元前2世紀~紀元5世紀頃のエスキモーの考古学的遺跡
●ヌナクの歴史的・文化的複合体・・・15世紀~19世紀のエスキモーの集落跡
●セミョーン・デジニョフの記念碑・・・17世紀のロシア人探検家を記念した灯台

 

*ここでいうエスキモーとは、ツンドラ地帯に住む先住民の内、イヌイット系と対をなすユピック系民族の総称のことです。

 

海獣猟師文化

海獣猟の文化的伝統は、ベーリング海峡ならびにチュクチ海に興った古ベーリング海文化(紀元前200年~紀元500年頃)にもともと見られたものでした。
古ベーリング海文化を起源とした他の先史時代のエスキモー文化(プヌーク文化、バーナーク文化、トゥーレ文化)は、後にアラスカからグリーンランドまでの北極海沿岸に広がりました

天然資源を余すことなく使用する生活様式は、チュコト沿岸部の住民にとって重要な事柄でした。
海獣の肉が栄養摂取の基本となり、脂肪は燃料として住居に温かさと光を、クジラの骨や石は住居資材に、さらに狩猟道具も動物の骨(セイウチの牙)から作られました
先史時代にアムール川下流域よりごくわずかな量の金属(鉄)がチュコトに運ばれましたが、岩場だらけの海岸線に住むエスキモーの人々は、自身で金属を採掘・精製することは出来ませんでした。
それ故にチュコトの海獣猟師たちは18世紀後半まで石器時代の伝統を保持し、木組みに皮張りの舟(バイダルカ)とセイウチの牙やシカの角で作られた特殊なカエシがある銛を使って狩猟を行いました。

バイダルカ©Музейный Центр «Наследие Чукотки»

テント型住居のヤランガは、北極圏での建築資材不足という状況の中で、その地の気候条件に合わせた住まいとして特異な例です。
住居は石、クジラの骨、流木を骨組みとし、セイウチなどの海獣の皮で覆い、苔などで隙間を塞ぎました
入口は内部の床の高さよりも低くなっていて、住居内の温風を効率的に使用することができる仕組みになっていました。
ナウカンとヌナクのヤランガは、古ベーリング海文化時代の典型的な建築様式に基づいて作られおり、2000年に渡ってこの地域に伝統文化が存在し続けていた証拠となっています。

1920年代後半まで、海獣猟技術や解体・貯蔵技術、料理方法は、チュコト沿岸部(特にデジニョフ岬)では大きな変化はありませんでした。
ソ連時代になってから、狩猟方法に“先進的”な方法が取り入れられました。
エンジン付きの捕鯨ボートがバイダルカに取って代わり、第二次世界大戦以降は銃器がチュコトに広がり、対戦車砲が捕鯨に使用されるようになりました。

海獣猟は未だに地域経済の重要な部分を占めています。
過酷な気候や海の環境の中で、巨大な動物と対決するという象徴的意義も同様に変わっていません。
先史時代と同じく、狩猟には勇気や我慢強さ、チームワークを必要としています。

人の自然への依存や自然との近しい関係は、人と海獣についての伝承や動物を模した骨の彫刻のような有形無形の文化によって表現されました。
特にナウカンやヌナクにはクジラにまつわる神話が伝わっています。
ナウカンでは、クジラは最も美しいナウカン女性と結婚ができ、お相手に選ばれることは大変名誉なこととされました。
さらに毎年、クジラに捧げたお祭りが開催されてもいました。
また、ヌナクの歴史と密接に結びついているのが、クジラは女性から生まれるというヌナクのクジラ神話でした。

ナウカンの音楽©Музейный Центр «Наследие Чукотки»

ナウカンの踊り©Музейный Центр «Наследие Чукотки»

 

ナウカンの重層集落


ナウカンのエスキモーの集落には、ナウカン語を話すエスキモーの一民族であるナウカン人が14世紀以降住んでいました。
19世紀末には約300~400人が住んでおり、20世紀ではエスキモーの中で最も大きい集落でした。
20世紀半ばまで、住民たちはベーリング海峡の島々(ダイオミード諸島)やアラスカのエスキモーの人々と密接なコンタクトを持ち続けていました。
また、ウエレン・チュクチと良好な関係にあり、取引や結婚を交わしていました。

1920年代、ナウカンの住民が初めて毛皮やセイウチの牙を使った商品を製作する作業場を設立し、そこで作られたピラミッドの形をしたチェスの駒はスターリンに贈られたそうです

セイウチの牙の彫刻©Музейный Центр «Наследие Чукотки»

1958年に軍事基地を設営するために住人は他の集落に移住させられました
基地は長くは運用されませんでしたが、放棄後もエスキモーの人々がこの地に戻ることもありませんでした。
このナウカン人の強制移住は、エスキモー・アレウト語族ユピック諸語の一つであるナウカン語の消失に繋がった悲劇として伝えられています。
今ではわずか数人が話すのみとなってしまいました。

1958年に放棄されるまでデジニョフ岬にあるナウカンの集落は、ロシア、ひいてはユーラシアで一番東にある集落でした。
3つの丘の上に180の住居跡と木製構造の屋根、石造りの壁がある食肉貯蔵庫跡が残されています。
また、ソ連時代の建造物も確認されていて、学校の基礎やディーゼル給油所、気象観測所跡がありますが、伝統的なエスキモー集落の景観を損なってはいません。

現在は領域内には誰も住んでいない為、ナウカンの集落の保存状態は比較的良好です。
放棄後60年以上が経っても、住居基礎の石造部分に変化は見られませんが、屋根やドア、床といった木造部分は自然の影響を受けてしまいました。

 

エクヴェンの埋葬地と集落

エクヴェンの埋葬地と集落はおおよそ10~12世紀頃に放棄されました。
30年以上に渡って325の埋葬地と1つの住居の発掘作業が行われ、道具、猟具、家事道具、神具や宝飾品などが発見されました。
特に骨の彫刻に代表される工芸品は、先史時代のエスキモー芸術が高い水準にある事を示しており、北極圏海獣猟師の伝統にとって不可欠なものになっています。
未だに埋葬地の60%以上と集落の90%以上が手つかずのまま残っており、今後の新しい科学的調査が待たれます。

埋葬地の大半は表からは見えなくなっています。
女性は宝飾品やナイフ、布、針と一緒に、男性は狩猟道具や骨を彫る道具、魔除けと一緒に埋葬されており、葬儀の為に特別に作られたものでした。
こうした工芸品は紀元前1000年紀~紀元1000年紀に掛けて、ベーリング海峡の沿岸部で非常に発展した新石器時代の文化があったことを示しており、≪北極圏のトロイ(ホメロスによって讃えられた)≫ともよばれています。

集落は北よりの冷たい風を2つの丘がさえぎっていて、各住居の構造は深さ約1.5m、直径10~15m程でした。
今では住居は草に覆われ、かつては建設用資材として使われたクジラの骨と一緒に丘の様に変わってしまいました
より海に近い場所は、主に6~7月の雪解けや強風による土壌侵食の被害を受けていますが、海岸より80~100m離れた場所にある住居跡や埋葬地全体はあまり影響を受けていません。

 

ヌナクの歴史的・文化的複合体

ヌナクの集落は2018年に初めて調査されました。
その結果、25のエスキモーの石造り住居が確認され、19世紀半ば以降に新しく作られたものはない事が判明しました。
ナウカンとヌナクのエスキモーの集落は、シベリアユピックの集落で、主に大きな丸石を使った建物や構造物があるのが特徴です。

 

セミョーン・デジニョフの記念碑

©Музейный Центр «Наследие Чукотки»

初めてこの地域を訪れたヨーロッパ人は、1648年にベーリング海峡を縦断したコサックの探検家セミョーン・デジニョフでした。
彼はまたナウカンとその住人たちを書き記した初めての人でもありました。
デジニョフを記念した灯台や木製の十字架は、ロシアの人々とチュコトの人々の間にある文化的つながりの目に見えるシンボルであり、ヨーロッパ人によって近世に行われた地理学的発見のシンボルとなっています。

チュコト沿岸部は、19世紀半ば以降アメリカとロシアの商人、アメリカと日本の捕鯨船が毎年のように訪れていて、デジネスフキー山塊はそれ以前より著名な探検家たちによって調査されていました。

有名な人物

●ヴィトゥス・ベーリング・・・アリューシャン列島の一部を発見。ベーリング海峡やベーリング海などは彼の名前にちなんでいる。
●ジェームズ・クック・・・オーストラリア大陸東海岸に初到達。ハワイ諸島を発見。アラスカ・アンカレジの街があるクック湾を発見。
●フョードル・リトケ・・・ロシア地理学会の創立者。12の新しい島を発見。
●アドルフ・ノルデンショルド・・・北ヨーロッパと東アジアを最短で結ぶ北東航路を発見。
●ボリス・ヴィリキツキー・・・セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島を発見。北極海航路で重要なヴィリキツキー海峡は彼の名前にちなんでいる。
●ロアール・アムンセン・・・人類初の南極点および北極点到達。
●オットー・シュミット・・・ソビエト大百科事典を創設。北極研究所、地球物理学研究所所長。チュコトには彼の名を冠した岬がある。

 

こうした結果的な交流は、ヨーロッパ式の北極圏への順応方法に対する理解が進むのと同様に、地域住民の間でヨーロッパの製品やヨーロッパ式生活様式の普及につながりました。
記念灯台の金属部分はわずかながら長年の雪解け水や降雨の影響を受けています。

 

観光とアクセス

観光の拠点になるのはラヴレンチヤ村。
ホテルなどはないので、民泊をして地元の方との交流を楽しみましょう。
大部分の場所で道路が未通の為、ボートで沿岸部を周ります。
近郊には、今でも銛を使った捕鯨やセイウチ狩りをして暮らすチュクチの人々が住んでいて、生活を体験できます。
抵抗のない方は、セイウチ肉の試食もどうぞ。
また、チュクチ自治管区の中心都市アナディリには、チュコト遺産博物館があります。

チュコト遺産博物館 ©Музейный Центр «Наследие Чукотки»

ラヴレンチヤ村にはユーラシア大陸で最も東にある空港があり、アナディリよりチュコトアヴィア航空がアントノフ24をメインにして、毎月2~10フライトを飛ばしています。
天候に左右されやすい為、数時間~数日の遅延も珍しくありません。
訪問時には柔軟な日程を組むようにしましょう。
アナディリには、ウラジオストクからS7航空が、ハバロフスクからヤクーツク航空が就航しています。