アストラハンは、ロシア南部、カスピ海に近いヴォルガ川下流域デルタにある街で、アストラハン州の州都。
チョウザメのキャビア加工地として世界的にも有名な場所です。

ヴォルガ川左岸の丘の上に築かれたアストラハン・クレムリンは、16世紀後半の軍事建築工学や17~18世紀の正教会建築の好例として重要な価値を有しています。
特にロシア・ツァーリ国時代以降は、シルクロードに於ける巨大な商業中心地ならびに中央アジアへの前哨基地としての役割を演じました。

こうした価値から、2008年4月28日に文化遺産として世界遺産暫定リストに登録されました。

 

アストラハンの歴史


アストラハンの街は、ロシアに於ける重要な歴史的出来事と密接な関連があります。

○7~10世紀
テュルク系遊牧民族国家ハザールの首都イティルが南南西40kmにあるサモスデルカ村にあったと推定されています

○13世紀中葉
モンゴル帝国の征西の結果成立した、ジョチ・ウルス(キプチャク=ハン国)の首都サライが北120kmにあるセリトリェンノイェ村に置かれました

○1395年
中央アジアを代表する君主、ティムールによってサライが壊滅させられました

○1466年頃
ジョチ・ウルスの衰退に伴い独立した、アストラハン・ハン国の首都になりました

○1556年
ロシア・ツァーリ国の初代皇帝イヴァン4世(イヴァン雷帝)によって征服されました

○1569年
オスマン帝国の軍勢によって包囲されました

○1570年
オスマン帝国はアストラハンの所有権主張を破棄し、ヴォルガ川全体をロシアが利用できるようになりました

○17世紀
ロシアの東方への玄関口として整備されました
アルメニアやペルシャ、インド、ヒヴァからの多くの商人がこの地に居を構え、多国籍で多様な特徴を有するようになりました

○1614年
住民がクレムリンを急襲し、マリナ・ムニシュフヴナとその守護者であったコサックの首領イヴァン・ザルツキーを追放しました
マリナ・ムニシュフヴナは、ロシア動乱時代にイヴァン雷帝の末子ドミトリーを僭称した偽ドミトリー2世の皇妃として、息子をロシア皇帝にしようと画策していました

○1670~1671年
17ヵ月もの間、ステンカ・ラージンとコサック軍勢の支配下に置かれました

○1705年
ドン・コサックの首領コンドラティ・ブラヴィンがピョートル1世に反旗を翻しました

○1717年
アストラハン県が設置され、その首都となりました
中央アジアへのロシアの初めての進出の前哨基地として機能しました

○1942年
第二次世界大戦に於けるドイツ軍によるブラウ作戦の包囲に耐えました
アストラハン・クレムリンは街を防御する主要な役割を果たしました

 

アストラハン・クレムリンの成り立ちと変遷



1556年、アストラハン・ハン国の首都であったアストラハンは、イヴァン雷帝によって征服されました。

1558年、イヴァン雷帝の命によって、ヴォルガ川を見下ろすザヤチューの丘の上に新しい木造の要塞が建設されました。

1582年、イヴァン雷帝の治世下で石造のクレムリンの建設が開始され、1589年のフョードル1世およびボリス・ゴドゥノフの統治時期に完成を見ました。
建設には、ジョチ・ウルスの首都であったサライの遺跡から運ばれた基礎が使われています。
アストラハン・クレムリンの特徴である城壁と8つの塔は、この時期に建てられました。
7つの塔(赤門塔、ニコルスキー門、プレチステンスキー鐘楼、砲兵または拷問塔、主教塔、ライ麦塔、クリミア塔)が現存しています。
城壁は厚さ2.8~5.2m、高さ7~11.3mを誇り、塔壁の厚さは3~3.5mに達しています。
城壁の総延長は1,554m、クレムリンの敷地は11haとなり、今日までその姿を留めています。

新しいクレムリンの建設は、モスクワの専門家ミハイル・ヴェリヤミノフ、グリゴリー・オヴツィンと*書記デイ・グバスティが指導しました。
その為、アストラハン・クレムリンはモスクワ・クレムリンと似通った構造となっています。
クレムリンは自然環境を上手に活用して建設され、直角三角形の形をとっています。
アストラハン・クレムリンの城壁と塔の両端には、通称”つばめの尾”と呼ばれる2つの角状の**マーロンを冠しています。
城壁には大砲や迫撃砲が設置でき、大砲設置場所の工夫や塔の内部構造、マーロンの様な防御性の高さが特に優れていて、ロシア・ツァーリ国において最も強固な石造要塞でした。

クレムリンの城壁が完成したのち、兵舎・営倉、行政府、司令官の館が設営されました。
18世紀には、執政官官邸、主教府、公文書保管所および131の住居がクレムリンに建てられました。
1720年代初めには、これらすべての住居はクレムリンより外に移され、1806~1813年の間にはアストラハン守備隊に必要な将校邸宅、兵舎などのみがクレムリン内に建設されました。
1807年にクレムリン中心部に守衛所が建てられました。
守衛所はクレムリン内部の改修にも関わらず今も存在していて、歴史的な価値を有しています。
20世紀半ばには守備隊はアストラハン・クレムリンより退き、城壁に隣接していた守備隊関連施設は取り壊されました。

*書記=14~17世紀ロシアの国家機関で責任ある地位を占めた官吏
**マーロン=城壁の上にある銃眼付きの胸壁の銃眼と銃眼の間の、上に高くせり出した部分

 

主な見どころ

赤門塔


街の防衛時には指揮所となった場所。
クレムリンの中で最も高い所にあり、ヴォルガ川に近くなっています。
1958~1966年に掛けて、建設当時の姿で再建されました。
12面体の形をとり、全周防御を遂行する為の入り組んだ3層構造をしています。
堡塁までの塔の高さは14.5mで、17の大砲と24の小銃を有しています。

クリミア塔

建設時の景観を保つ塔のうちの一つ。
5層構造で20の銃眼を持ち、広さ2.8×13.2mのひし形、南側地面より堡塁までの高さ17m。
塔の入口は第4層にあり、壁内には石の階段があります。
第1層のみ地下に埋まっており、木製階段でつながれています。
各階層の床は木製となっています。

砲兵(拷問)塔

クレムリンの北東にある塔で、建設当時からあります。
広さ12.7×12.3mのひし形で、堡塁までの高さ16m、4層構造で15の銃眼があります。
16~18世紀に行われていた拷問についての展示があります。

ウスペンスキー大聖堂


ウスペンスキー大聖堂は、ロシア人建築家ミャキシェフによって1698~1710年に建設されました。
十字架を含めた大聖堂の高さは75mあります。
大聖堂の壁は大きな赤レンガで作られていて、5つのドームを持った立方体の形をしています。
東側には5つのアプス(後陣)を拝する至聖所があります。

大聖堂は2層構造になっていて、上層は温暖な時期の祝祭儀式の際に使われました。
下層は1714~1914年までイコン“ウラジーミルの生神女”が飾られ、アストラハン主教の墓となっていました。
*ジョージアの王ヴァフタング6世やティムラズ2世も埋葬されています。

アストラハン・クレムリンのウスペンスキー大聖堂は、まさに18世紀初頭のロシアに於ける教会建築の最たる例として考えられています。
1722年のピョートル大帝がアストラハンを訪問した際に、彼は精巧に装飾された5つのドームを持つウスペンスキー大聖堂に賞賛を送りました。
“わが帝国を全て見渡しても、これほど美しい大聖堂は存在しない”

*ジョージアの王=ジョージア中部に15世紀半ば~18世紀半ばまで約300年間存在したカルトリ王国の王

プレチステンスキー鐘楼

鐘楼は20世紀初めに建築家カリャーギンの設計によって建てられ、高さが80mあります。
鐘楼の下には3つの通路があり、2つの別棟が備わっています。

今ある場所にはかつて異なる時代に2つの鐘楼がありましたが、地盤沈下や基礎の脆弱さから解体されました。
最初の鐘楼は1710年にウスペンスキー大聖堂と同時に建設され、63mの高さを誇りましたが、1765年に解体されました。
2番目の鐘楼は1809~1813年に掛けて建設され、19世紀末まで存在していました。

1991年以降、ウスペンスキー大聖堂の鐘楼として今なお活躍しています。

トロイツキー大聖堂


16世紀末から17世紀初めに掛けての状態で保存されています。
過去何度も再建されており、現在は3つの教会と2つの食堂が付設しています。

聖ニコライ門上聖堂

16世紀の門の上に作られた聖堂で、1729~1738年の創建当時の姿が保存されています。
聖堂には渡り廊下が通され、西側に石造りの玄関部が設けられています。
20世紀初めに、聖堂の外観、円屋根や*ココシュニクに似た半円状の装飾に手が加えられ、屋根はタイルで覆われました。

*ココシュニク=ロシアの女性が頭頂部に付ける伝統的な装飾品(頭飾り)

 

アクセス

アストラハンへは、モスクワからアエロフロート・ロシア航空やS7航空が就航しています。
また、カザンやニージニ・ノヴゴロド、近くではロストフ・ナ・ダヌーやヴォルゴグラード、ソチからもフライトがあります。
列車の場合、モスクワからは丸々1日かかり、車中泊となります。

また、アゼルバイジャンの首都バクーとも結ばれています。