ゴロホヴェツの街は、穏やかなクリャージマ川沿いにある、緑の多い美しいのんびりとした街。
特に17世紀の石造りの教会や商人の邸宅が残っています。
造船業以外の産業がほとんど発展しなかったため、近代化の影響をあまり受けませんでした。
また、ソ連時代には外国人の訪問が制限され、今でもあまり知られていない場所です。

中世の街並みが保存されている為、2017年3月7日、ロシア政府によって、文化遺産として世界遺産暫定リストに登録されました。
2022年の世界遺産委員会では本登録に向けて検討される予定となっています。

さあ、いち早くまだ見ぬロシアへの旅を踏み出しましょう!

 

街のはじまりと繁栄


街の始まりは、モスクワの建設者として知られるユーリー・ドルゴルーキーの手によって、1107年以降にウラジーミル・スーズダリ公国の南東の国境を守る要塞として建設されたと推定されています。

“1107年、ヴォルガ・オカ・クリャージマ・ネルリを通ってスーズダリへ軍事遠征したヴォルガ・ブルガール人たちは、途中で一つとして防御陣地と遭遇することは無かった。さらに王侯の統治者が不在であったため、簡単に街まで到達できた。まさにこの事実を以って、ブルガール人たちからの新たな攻撃を防ぐために、守備隊を擁する一連の要塞都市:スタロドゥーベ、ヤロポルチ、ゴロホヴェッツ、ベレシェットをクリャージマ川沿いに建設することになった。”

852年から1305年までの出来事をまとめたラヴレンチー年代記に、≪聖母の都市≫としてゴロホヴェツが初めて言及されたのは、1239年のモンゴル帝国による侵略でした。

1392年、ヴァリーシー1世の治世下で、ゴロホヴェツはモスクワ大公国に吸収されます。

1539年、カザン・ハン国による侵略で街は徹底的に破壊されましたが、その後すぐに復旧され、1545年の侵略を跳ね返しました。
伝承によると、敵がゴロホヴェツを包囲していた際、日没寸前の光が差した丘に、手に剣を持った巨大な戦士の姿が現れました。驚愕した敵は後退し、それ以降その場所はプジャロヴォ(恐ろしいもの)と呼ばれるようになりました。

17世紀、ロシア動乱時代を経て成立したロマノフ朝の下、ゴロホヴェツは繁栄を迎えていきます。
特に1690年代はカノンニコフ、エルショフ、シュミーリン、サポジュニコフといった水運で財をなした商人たちが現れました。
アルコール醸造所やなめし皮工場を保有し、交易で富を築いた商人たちは、それまでの木造建築の代わりに石造建築を建てました。
この時期に、ズナメンスキー修道院、ニコルスキー修道院、スレテンスキー修道院やキリスト復活教会、ブラゴヴェッシェンスキー聖堂が建立されました。

19世紀末、街中には3つのレンガ工場と1つの染め物工場があるだけで、近代産業は育っていませんでした。
大工仕事と並んでゴロホヴェツで盛んだったのは、ボイラー製作工としての出稼ぎでした。
そうした中、1892年に金属製品製造工場が設立され、特に造船業に傾注しました。
1907年には当時世界最大の油槽船マルファ・ポサドニツァの建造を受注し、ロシア有数の造船場として知られるようになりました。
第二次世界大戦を通じて、街の発展に貢献しましたが、工場は1990年代に操業を中止しました。

 

見どころ

ブラゴヴェッシェンスキー聖堂

商人ショリナ邸

17世紀に建立された石造の教会群や、当時の商人たちの邸宅などがメイン。
○ニコルスキー修道院:トロイツキー聖堂と鐘楼
○ズナメンスキー修道院
○スレテンスキー修道院
○エルショフ邸
○シリャエフ邸
○カノンニコフ邸
○リサヤの丘・・・眺望が良い
○ゴロホヴェツ歴史建築博物館
○プジャロヴォの丘・・・スキー場となっている

 

アクセス

ウラジーミル州東端、ニジニ・ノヴゴロド州との州境近くに位置しています。
モスクワとウファを結ぶ総延長1,351kmの幹線道路M7の途中にあり、モスクワからは東に約340kmの場所。

○車・・・モスクワより約6時間
○列車・・モスクワより高速鉄道で約3時間10分(ゴロホヴェツ駅は街から約12km離れたヴェリコヴォ村にある)